みき演劇セミナー

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今までの三木ではあまり盛んでなかった、総合舞台芸術の象徴ともいえる演劇を、市民参加による形で平成8年にスタートしました。最初の2年間は県立ピッコロ劇団と共同で開催。その後、独自で三木ブランドを立ち上げるべく、平成15年には郷土を題材にした創作劇「二皇子の里」の台本完成を皮切りに「わがまちシリーズ」を継続。
"見つめ直そうふるさとを"テーマに今後も走り続けます。

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わがまちの大切さを伝えたい「歴史は人を創る」 2019/04/08

みき演劇セミナーとは

三木市文化会館の市民参加型事業です。阪神淡路大震災をきっかけに、芝居で笑顔を取り戻そう、
そんなきっかけで始まり23年が経っています。
県立ピッコロ劇団の指導のもと始まり、3年目からは、独自にシェイクスピアなどの既製の台本での公演を幾度か上演。いつの間にか、「“わがまち”を描きたい。」、「歴史を通して、現在の私達に通ずるものを皆さんに紹介したい。」そんな想いで16年前より“わがまちシリーズ”をスタートさせました。芝居に必要な脚本、演出、舞台監督、大道具、小道具、衣装と、出来ることはプロの手を借りず、全て参加者が行います。決して発表会ではなく有料公演を前提とした意識を持って。私たちが次世代に「繋げる役目」と自覚しながら日々活動しています。

こだわり続ける演目「三木合戦」

三木市民の心に生き続ける“別所長治公”より学ぶ
 年に一度の公演。何を題材に描くか・・・。お客様に何を感じてもらうか・・・。
忘れ去られようとしている郷土の歴史。二皇子、藤原惺窩先生、小野好古(平安時代)、大村由巳、山田錦他、いままで多くの歴史を描く中でも、「三木合戦」にこだわりつづける理由。
家臣、民、三木のまちを守る為、城主一族自ら切腹を選んだ“別所長治”。
この思いに私たちは、今生きている、生かされている、「このことを伝えよう」これ以上のテーマはないと。

脚本づくり・・・生みの苦しみ

脚本づくりは苦労します。題材はともかく、その人物をどう描くのか、これは役者も同様に考えることです。
別所長治で例えると、長治の人生はどんな少年時代を経て育ってきたのだろうか、どんな生活を送っていたのだろうか、どんな性格だろうか、から始まり、どうして自分の身より民の命、三木のまちを大切にしたのだろうか。全てを考えなければ、別所長治を演じることができません。
もしかしたら、長治には400年以上経った今の三木が見えていたのかもしれません。
「平和なまち、民が楽しく暮らす三木のまちを。」
このことを現在に伝えたかったのかもしれません。
こんなことを思いながら、脚本づくりから役づくりまで行っていきます。

ふるさと三木への想い テーマ「語りつごう」

三木で生まれた「みき演劇セミナー」。今後もひとつでも多くの歴史、歴史人の想いにこだわり、紹介し続けたい。そこには現在の小さな出来事ではなく、もっと大きなテーマが見えてきます。私たちはそれに気づき、それを一人でも多くの皆様に伝えることを目標に、集まったメンバーと共に今後も走り続けます。


プロフィール

毎年参加者の募集を行い、どなたでも参加できます。歴史勉強から始まり、公演に必要なこと全てを体験していただき、3月に三木市文化会館小ホールで公演を行っています。公演では、毎回チケットが売り切れるほどの反響を得ています。また、他にも三木城址での寸劇、成人式での寸劇、金物まつりでの武者行列、寸劇など、日々活発に活動しています。


公演 2019/04/08
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赤松広通が訪ねてくるシーン

藤原惺窩の将来妻となる役名(てい)を連れて


公演 2019/04/07
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3月17日公演より

場所は相国寺
大村由巳が藤原惺窩を訪ねてきます


公演 2019/04/05
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3月17日公演より

細川城落城、その一報が景雲寺の藤原惺窩に届きます


公演 2019/04/05
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3月17日公演より

三木高等女学校の校歌披露

※当時通われていた皆様による
※歌詞に細川、藤原惺窩先生の事を歌われている

三木高等女学校校歌

堀沢周安:作詞
田中銀之助:作曲

軍の塵を打ち払ひ
文の林に分入りて
聖の道の導せし
人こそ此処に生れしか
流れて清き細川の
水の心に従ひて
桃津の里の花陰を
辿るも楽し我等皆

命に代えて弓取の
名を惜しみける大丈夫が
守りし城跡占むる
学の庭に月清し
三木の松が枝色変えぬ
高き操に傚ひつつ
日本婦女の教草
摘みて進まん諸共に


兵庫県三木高等女学校の沿革

●大正13年4月
三樹尋常高等小学校に併設。三木町立実家高等女学校として創立
●15日
入学式が三樹校の裁縫室で行われる。一年生56名、二年生24名。
●16日
授業開始。
●大正15年6月4日
四年生18名、東京方面へ修学旅行。
●昭和2年3月16日
第1回卒業式挙行。卒業生20名を送り出す。上の丸に学校移転。
●昭和3年4月1日
高等女学校に組織変更され、兵庫県三木高等女学校と称し、補習科が置かれる。
●昭和5年4月1日
三木高等女学校が県営に移管される。県立高等女学校の始まり。
●昭和7年7月2日
用水池決壊の水害。一般避難者及び避難小学校生徒のため。校舎を開放。
炊き出しを行う。

 兵庫県三木高等女学校は、大正13年4月、三木町立実家高等女学校として創立されたのが始まりです。当時はまだ独立した校舎もなく、三樹尋常高等小学校の中に併設でしたが、15日に裁縫室で1年生56名、2年生24名の入学式が挙行され、ここに学校の歴史の第一歩が踏み出されたのでした。
昭和2年6月、難工事の末、ようやく三木城跡の地にま新しいピンク色の校舎が落成し、待ちあぐんだ生徒たちによる引越し作業は、実に賑やかであったといいます。翌年4月には、高等女学校に組織変更され、
三木町立高等女学校としてスタート。さらに同5年には、念願であった兵庫県への移管が叶ったのでした。
 同7年7月2日の用水池決壊の水害のときには、一般避難者及び避難小学校生徒のため校舎を開放。
炊き出しを行いました。
 また、同17年4月18日、太平洋戦争における戦局が行き詰まりを見せる中、三木でも空襲警報が発令され、生徒、教員とも不安な時間を過ごすこととなりました。
 戦後間もなくの同20年10月9日、昨夜からの雨の影響で、美嚢川が氾濫。家屋の流出、死傷者が多数出るなど、甚大な被害が発生しました。学校では、多くの罹災者のために講堂を開放、炊出しや救護活動に当ったのでした。
 その後、戦後の学制改革で兵庫県立三木高等学校と改称し、同41年に現在の場所に移転するまで
上の丸の地に青年たちの声がこだますることとなったのでした。


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