市民オペラ

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音楽・演劇等、多彩な舞台芸術の要素を含んだオペラを市民の力で三木の地に根付かせ、地域における芸術文化の振興を図り、個性と魅力あふれる地域文化の創造に寄与することを目的として、年1回「市民オペラ」を開催します。

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三木市民創作オペラ 三木合戦 公演 2014/09/28
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二部
ストーリー紹介
ナレーション:小田 由美子



三木市民創作オペラ 三木合戦 公演 2014/09/26

三木合戦

 ときは天正5年(1577)秋、天下統一を目指す織田信長は、中国地方の毛利征伐をもくろみ、羽柴秀吉を総大将に命じました。
 早々に播磨に乗り込んだ秀吉は、反織田方の拠点であった西播磨の上月城などを落し、一たんは播磨を平定したかに見えました。
 しかし、年が明けた天正6年(1578)、三木城主別所長治は織田信長を見限り、毛利輝元への帰属を決めたのでした。慌てた秀吉は、長治に対し、再三もう一度信長のもとで働くよう説得を試みますが、長治は同意しませんでした。秀吉からの連絡を受けた信長は、「言語道断」と激怒し、秀吉に対し三木城攻めを命じます。
 ちょうど、その頃、播磨に入った毛利勢が織田軍の手に移った上月城を包囲。救援に向かった秀吉とにらみ合ったままこう着状態となります。そこで、信長は上月城救援をあきらめて三木城攻めに専念するよう命じたことから、秀吉はやむなく姫路の書写山に移りました。
同じころ、織田軍も信長の長男信忠をはじめ秀吉を救援するための部隊がぞくぞくと播磨入りし、三木城を支援する神吉(かんき)城や志方(しかた)城などを攻撃します。神吉城主の神吉頼定(よりさだ)も必死で抵抗し、滝川一益らが負傷しますが、やがて落城します。志方城も神吉城が落ちたのを見て降参してしまいました。
 天正6年(1578)7月、神吉・志方の両城を落した織田信忠は平井山など数カ所に付城(つけじろ)と呼ばれる砦(とりで)を築いて、羽柴秀吉に城を譲り渡し、本格的に三木城を包囲し始めます。
 一方、別所氏を救援しようと中国地方からは、毛利軍が明石の魚住の浜や花隈(神戸市)などに上陸し、懸命に三木城へ兵糧を運び込もうとします。
 天正7年(1579)4月、毛利軍の動きを察知した織田信長は信忠や前田利家などを三木に送り込み、さらに付城を6カ所築いて兵糧が三木城に送られてくるのを防ごうとしました。
 この結果、城内の食糧事情は一段と厳しいものになっていきます。
 この年の9月の毛利軍と示し合わせて兵糧の受渡しを行おうとして行われた平田大村合戦でも毛利−別所方の敗北となり、いよいよ「三木の干し殺し」の状況となってきました。三木城内の状況を見て秀吉は、三木城の隣接地帯にさらに付城を構え、力攻めのための足がかりを築きます。
 明けて天正8年(1580)1月5日、いよいよ秀吉による力攻めが始まります。まず三木城の南側を守る宮の上要害が調略によって乗っ取られます。続いて11日には、長治の弟・友之が守る鷹尾山が攻略され、秀吉が直々に乗り込んできました。そして、三木城本丸に立て籠もる別所氏一族に対し、降伏勧告を行います。これに対し、別所長治は、家臣や領民の命とひきかえに別所氏一族が自害することを条件に了承します。
 そして、迎えた天正8年(1580)1月17日、妻子を刺殺した長治、そして弟の友之らは、それぞれ、

   今はただ 恨みもあらじ諸人の いのちに代はるわが身と思へば

   命をも 惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも 名を思う身は

 の辞世を残し、自害して果てたのでした。
 こうして、1年10か月にわたる三木合戦は終幕を迎えることとなりました。


三木市民創作オペラ 三木合戦 公演 2014/09/26
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三木市制施行60周年記念事業
三木市民創作オペラ「三木合戦」

満席のお客様を向かえ14時開演したまし

一部
歴史説明:三木合戦
ナレーション:岩波孝昭


三木市民創作オペラ 三木合戦 公演日 2014/09/19
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ゲネ・プロ終了

公演最後は、全員客席を通過しての退場となります


三木市民創作オペラ 三木合戦 公演日 2014/09/19
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前日のゲネ・プロでは客席での鑑賞は可能でしたが、本番日は会場での観劇はダメにしております

出演時間に合わせ、楽屋での準備、移動と本番とまったく同じ段取りでおこないます


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